【ソクラテス】善く生きるとは?

こんにちは。本宮 貴大です。

 

ソクラテスによると、「善く生きる人」とは、「善い人」であるとしています。「善い人」とはどんな人なのでしょうか?

たとえば、「善いハサミ」とは、切れ味が鋭いハサミのことです。また「善い馬」とは、速く走ることが出来る馬のことです。

では、「善い人間」とはどんな人なのでしょか。

ソクラテスは、「善い人間」のことを「徳のある人」と表現しました。徳とは、日本の学校で学ぶ「道徳」とほぼ同じ意味ととらえて差し支えない。

民主政治が繁栄した当時のアテネでは、人間中心主義の拡大解釈によって、市民一人一人が勝手気ままに行動しても良いという風潮が蔓延していました。すなわち、不正をしてまで、富や地位を獲得しようとする者が増えてしまったのです。

こうしたアテネの腐敗をソクラテスは痛烈に批判し、人々に「善く生きる」ことを説きました。では、ソクラテスのいう「善く生きる人」とはどのような人なのでしょうか。カリクレスという野心的な人物との対話をみながらその理解を深めてみましょう。

 

カリクレス 「ソクラテスよ。あなたは、善く生きることを説いているが、それで本当に幸福になれるのかね。」

ソクラテス 「そう確信している。不正をしてまで富や地位を獲得しても、魂が傷つくので、真の意味で幸福になることなど出来ないのです。」

カリクレス 「でもね。ソクラテスよ。アテネ市民の中には、不正をして富や地位を得ても幸せそうに生きている者がいるではないか。不正をすることも個人の才能のひとつなのだ。不正をしてはいけないなどとは、そのような才能がない弱者が負け惜しみを言っているだけではないのか。」

ソクラテス 「貴方は人間としての品格を失っていますね。身体は健康かも知れませんが、魂は不健康そのものですね。」

カリクレス 「そんなことはない。自然界では、弱肉強食が大原則ではないか。強い者が、弱い者を支配し、強引な方法で欲を満たしているのだ。強くなくては生きていけないのだ。」

ソクラテス 「それが原因ですね。あなたは強い者の定義をはき違えていますね。強い者とは、自らの欲望や快楽をコントロールし、正当な方法でそれらを満たしていく者のことを言うのだよ。一方で、地位や富などは人間の附属物でしかないのだよ。人間の本質は徳であり、地位や富は、徳を持った人間に生かされてこそ、はじめてその効力を発揮するのだ。」

 

 このようにソクラテスは、善く生きることは、魂を傷つけないことであるとし、魂を良くするためには、魂に徳が備わっている必要があるとしました。では、魂に徳を備えるにはどうしたらよいのでしょうか。ソクラテスは次の3つの手順を踏む必要があるとしている。

  1. 知徳合一
  2. 知行合一
  3. 福徳一致

 まず、「善」というものを知らなければなりません。「善」とは、善悪の判断基準に照らし合わせて「善」に分類されることを言います。「善」を知らなければ、善と悪をはき違えてしまうことになりかねません。また、その基準がより高次になったものを「真の善」といい、例えば「他人のものを盗んではいけない」などは低次の善であるといえます。そんな「真の善」を知り得た者が徳のある人だとしました(知徳合一)。

次に、知り得た「善」を行動に移す必要があります。逆いうと、行動が伴わないのであれば、それは「善」を知らないことと同じなので、腑に落ちるまで「善」を学び、自然と行動出来るようになる必要があります(知行合一)。

そして、善を知り、行動に移すことを繰り返すことが、善く生きるということであり、それこそが幸福な生き方であるとした(福徳一致)。

 

ソクラテスは、人間にとって大事なのは「どれだけ生きたか」ではなく、「いかに生きるか」にかかっているとした。

【マルクス】資本主義経済の問題点とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

 

「人間は生まれながらに自由で平等であるはずなのに、実社会は驚くほど不自由で不平等である。」

なぜ私達の社会は、不自由で不平等なのでしょうか。それは、私たちが資本主義社会に組み込まれているからです。

今回は、そんな資本主義社会の問題点について提起しながら、マルクスの思想についても学んでみたいと思います。

 

「資本家と労働者では、資本家の立場が強い。したがって、労働者は資本家から必ず搾取される。そんな資本主義経済はやがて滅びるであろう。」

これがマルクスの主張です。マルクスは、当時急成長していた資本主義経済について研究し、著書『資本論』の中で、その問題点を指摘しました。

マルクスが指摘する資本主義の主な問題点は以下の2つです。

・貧富の格差が大きいこと

・失業があること

 

 貧富の格差とは、資本家と労働者の所得の格差であり、巨額の富を得る一部の資本家階級(ブルジョワジー)に対し、わずかな賃金で過酷な労働を強いられる大多数の労働者階級(プロレタリアート)がありました。

 それまで国民の9割は農民であり、国王や領主からの重税にしばしば反発することはあっても、それぞれが自立し、素朴でゆったりとした生活を送っていました。

 しかし、18世紀のイギリスをはじめ産業革命が起こり、社会構造は大きく変わりました。大勢の人々が都市部に流れ込み、一つの作業場(工場)で働くようになったのです。封建社会から資本主義社会へと移行したのです。

 当時の資本主義社会は、資本の蓄積が不十分で、企業間の競争が激しかったため、資本家は、労働者を低賃金で長時間労働をさせていました。したがって、労働者の生活は現在では考えられないくらい過酷なものでした。労働時間は最低でも12時間が普通で、16~18時間になる時もありました。また、労働者の生活環境も劣悪で、ブタ小屋のように狭く、不衛生な住居に家族とともに住んでいる状態でした。医療制度は皆無で、様々な病気が蔓延していました。さらに、婦人や児童までも、より安価な賃金で労働に駆り出されていました。

 また、失業も大きな社会問題となっていました。資本主義経済には景気変動があります。不景気になると、労働者は抗力なく解雇されてしまう。かつてのような自立性を失った労働者が解雇されてしまうと、もはや生活の糧を得ることが出来なくなってしまいます。

このように18~19世紀の資本主義社会では、労働者の人間としての尊厳は配慮されていませんでした。

 

こうした状況を目の当たりにしたマルクスは彼らに同情し、「労働の4つ疎外」を発表しました。以下、4つを解説します。

1.生産物からの疎外

2.労働そのものからの疎外

3.類的存在からの疎外

4.人間の自己疎外

 まず、労働者が生産した物は、労働者の手には届かず、富裕層のもとに届いています(生産物の疎外)。また、労働そのものが資本家の私腹を肥やすためのものとってしまい、労働者は生きがいを感じにくい(労働そのものからの疎外)。さらに、工場での労働は効率性とチームワークが求められるため、足を引っ張る者が現れると、その者を排除しようとしたり、労働によるストレスから労働者同士が互いに罵り合ったり、いじめたりすることも起こりました(類的存在からの疎外)。そして、労働者は労働によって人間本来の自己を失っていく(人間の自己疎外)。

 マルクスは言いました。「本来、人間は労働を通じて生きがいを感じ、他者と豊かな関係を築き、自己実現していく存在である」と。

 しかし、当時の資本主義経済では、資本家にとって労働者は、土地、建物、機械設備などの生産手段のひとつに過ぎず、一方の労働者も、もはや労働は賃金を得るための手段にしかなっていませんでした。

 

 今回は、資本主義の問題点と、マルクスの思想について取り上げてみました。マルクスは19世紀の経済学者ですが、これは現代の日本でも同じことが言えるのではないでしょうか。仕事に就きたくても就けない失業者、低賃金で苦しい生活を強いられている若者、そんな社会に背を向ける働かないニート、そして過労死・・・・。2021年現在、資本主義経済は限界にきているのではないでしょうか。

 もちろん、現代の科学技術の発展と豊かな生活は、資本主義経済の恩恵でもあることを忘れてはなりません。(資本主義社会の矛盾)

 一方で、近年、こうした資本主義社会が独自の進化を遂げているという見方もあります。サラリーマンとして働くのではなく、フリーランスとして働き始めている人達がたくさん出てきたり、また、貯蓄から投資へと移行する人が増えたりと、その変化は肌で感じることが出来ます。

 つまり、資本主義経済の問題点が徐々に改善されて新たな社会構造へと変化していっているのです。そんな進化していく資本主義経済の中で、どう生きていくかを自らで考えるときに来ているのです。

【ソクラテス】「産婆術」と「無知の罪」について

こんにちは。本宮 貴大です。

 

ソクラテス以上に優れた者はいない」

これは予言の神・アポロン神を祀るデルフォイ神殿で述べられた神託(神のお告げ)です。これを聞いたソクラテスの知人は早速、ソクラテスにこのことを伝えました。これを聞いたソクラテスは当初、「そんなことはない」と思いました。しかし、デルフォイの神託は絶対です。彼は神託の本当の意味を確かめるため、アテネ市民の中から、自分より知恵のある者を探しました。

ソクラテスは、アテネの堕落はソフィストたちの人間中心主義が招いたものだとして批判しました。ソクラテスの思想は、ソフィストとどのような違いがあるのでしょうか。今回はそれを見ていきながら、ソクラテスの産婆術についてみていこうと思います。

ソフィスト

ソクラテス

弁論術

産婆術(対話法)

教える

育てる

豊富な知識を持つ

無知の知

真理は相対的である

絶対的な真理を求める

 

 紀元前469年、ソクラテス古代ギリシアアテネに生まれました。父は石工で、母は助産婦でした。ソクラテスは顔が非常にブサイクだったようですが、幼い頃から好奇心旺盛で、自然哲学に熱中していたようです。当時のアテネでは、将軍・ペリクレスの指揮のもと、民主政治が全盛期を迎えていました。18歳以上の男子であれば、誰でも政治に参加できる直接民主政が完成しました。

 アテネパルテノン神殿を根拠地に町が造られ、その中心部にはアゴラという市民の公共広場があり、民会や法廷、市場として利用されました。民会では、自らの意見を論理的かつ雄弁に語り、人々を説得できた者は、その意見を政治に反映させることが出来ました。

 そこで、報酬を貰って弁論術を教える職業教師(ソフィスト)が現れました。賢者を意味するソフィストは、大変豊富な知識を持っており、アテネだけでなく、ギリシア各地を回って弁論術を教え、謝礼金を貰っていました。

 

 ソフィストを雇う人達の中には、「立身出世のためなら、たとえ自分が正しくない主張であっても、相手を説得できるような雄弁さが欲しい」というニーズが高まりました。そこで詭弁術などを教えるソフィストも現れました。詭弁術とは、虚偽であっても真理のように見せかける話術のことですが、手段と目的が逆になってしまう現象が起きてしまいました。

 ギリシアを遍歴したソフィストたちは、全ての生物のなかで人間のみが物事を判断する基準を持っているとする一方で、法律や規範、道徳などは、地域や民族、人種によって異なるとしました。つまり、物事の判断基準は、一人一人の人間のとらえ方や感じ方にあるとする相対主義を唱えたのです。

 彼らの代表格であるアブデラのプロタゴラスは「人間は万物の尺度である(人間中心主義)」と述べ、これにソフィストたちは概ね合意しました。

 ソフィストたちは、ギリシアの人々を過去の因習から解放すると同時に、極端に個人の考え方や価値観を重視する人間中心主義へと向かわせてしまいました。人々は互いに勝手気ままに行動するようになり、時には不正や盗みなどの法や規範に抵触する行為も見受けられました。

アテネはにわかに衆愚政治へ傾倒していきました。

 これをソクラテスは、強く批判しました。現在のアテネの堕落はソフィストたちが招いたものだとしたうえで、人間社会には、地域や民族に共通する絶対的な真理が必ず存在すると説きました。

 

 この頃、ギリシアではペロポネソス戦争が起こりました。この戦争は、アテネデロス同盟の運営資金に着服していたことが明るみに出て、これに反発したスパルタなどの各ポリスがギリシアに圧力をかけたことから始まりました。この戦争にソクラテスも重装歩兵部隊として出陣しました。

 当初は優勢だったアテネでしたが、ペリクレスが病死したことで、士気が低下、戦争は膠着状態に陥り、ギリシアの諸ポリスは国力を低下させていきました。

 一方、武功を挙げたことで、戦線から離れることを許されたソクラテスは、その後、アテネ社会で奇妙な振る舞いをしました。彼はアテネの政治家や作家など、知識人とよばれる人達に、だれかれ構わず話しかけたるようになったのです。

 ソクラテスの対話は、相手の論理の矛盾点を暴き出すもので、相手自身に知っているというのは、実は思い込みであることを気づかせるものでした。しかし、ソクラテスは決して相手を否定したり、からかったりすることが目的ではなく、それまで相手が知らなかった新しい知恵に気づかせることにありました。同時に、相手に無知を自覚させることで、より知恵のある人間へと成長させる機会を与えるという積極的な働きかけでした。こうした働きかけを、出産を援助する助産師に喩えて産婆術(対話法)といいます。

 

 また、ソクラテスは知識人たちに「正義とは何か?」、「勇気とは何か?」、「友情とは何か?」という人間として大事な真理についても問いかけました。

 その結果、わかったことは、彼らは自分には知恵があると思い込んでおり、他人からもそう思われているが、人間として大事なことを知らない。そればかりか、知らないのに知ったようなフリさえしている。

 一方、ソクラテスは知らないことを知っているという点で、彼らより優れていると感じました。人間の持ちうる知識など神から比べれば無にも等しい。だからこそ、人間は絶えず無知を自覚し、知恵を追い求める存在でなければならない(無知の知)。ソクラテスは、「自分は無知で、他のソフィストのように豊富な知識を教えることなど出来ない。」とし、謝礼金をもらうことは一切ありませんでした。

 

 ソクラテスは、生涯を通じて無知を自覚しながら、知恵を探求しいったからこそ、「人間として大事なこと」に気が付いたのです。

 では、そんなソクラテスが知った「人間として大事なこと」とは一体どのようなものなのでしょうか。次回をそれについて見ていこうと思います。

 

 ソクラテスの産婆術は、もしかすると究極の人材育成法なのかもしれません。実際にソクラテス式問答法は、大学の法学部などで教授たちが採用している指導法です。ただ知識を教えるだけでは、生徒は教師以上の知識を持つことは出来ません。それよりも、生徒自身に無知であることを自覚させた方が、教師以上の人材へと成長していくことが出来るのではないでしょうか。また、人間は並み以上の知識も持つと、つい傲慢になり、それ以上の成長が期待出来なくなります。知らないことを知っているという謙虚な姿勢を持つことが自己成長の基本姿勢でもあるのです。

【ソフィスト】アテネ社会が堕落した原因とは?

こんにちは。本宮 貴大です。 

古代ギリシアでは、プロタゴラスを代表とするソフィストと呼ばれる職業教師が誕生しました。今回は、ソフィストとはどのような人達かをみていきながら、アテネ社会が堕落した原因について学んでいこうと思います。是非、最後まで読んでくださいますよう、よろしくお願いします。 

 

「最善の政治とは、市民一人一人が意見を出し合う政治のことだ。」

古代ギリシアでは、民主政治の考えが芽生え、特にアテネでは紀元前508年、クレイステネスの改革によって民主政治の基盤が着々と整備されていきました。

アテネパルテノン神殿を根拠地に町が造られ、その中心部にはアゴラという市民の公共広場があり、民会や法廷、市場として利用されました。民会では、アテネの成人男性が自らの意見を論理的かつ雄弁に語り、人々を説得できた者は、その意見を政治に反映させることが出来ました。

紀元前5世紀になると、専制国家のアケメネス朝ペルシアがギリシア全土に侵攻してきました(ペルシア戦争)。アテネでは将軍・ペリクレスが指揮をとり、スパルタなどの他の諸ポリスも立ち上がり、ギリシアは一致団結し、ペルシアの侵攻を阻止することに成功しました。

以後、ギリシアではペルシアの再来に備えてアテネを盟主としたデロス同盟を結成しました。

また、この戦争の勝利に自信を得たアテネは、専制国家に屈しない民主政治の確立を急ぎました。ペリクレスは法律を定め、両親ともにイオニア人アテネ人)である18歳以上の男子であれば、誰でも政治に参加できる直接民主政が完成しました。

 

アテネでは弁論術に長けた者が政治家として出世することが出来ました。先ほどのペルシア戦争を指揮したペリクレスは、演説によってアテネ市民を鼓舞し、ペルシア軍を撃退することに成功しました。この功績からペリクレスは将軍から政治家へと出世しました。

そこで、報酬を貰って弁論術を教える職業教師(ソフィスト)が現れました。賢者を意味するソフィストは、大変豊富な知識を持っており、アテネだけでなく、ギリシア各地を回って弁論術を教え、謝礼金を貰っていました。

 

しかし、ソフィストを雇う人達の中には、「立身出世のためなら、たとえ自分が正しくない主張であっても、相手を説得できるような雄弁さが欲しい」というニーズが高まり、それに答えるように詭弁術などを教えるソフィストたちも現れました。詭弁術とは、虚偽であっても真理のように見せかける話術のことですが、手段と目的が逆になってしまう現象が起きてしまったのです。

アテネの民主政治がにわかに堕落していきました。

 

ソフィストたちは、全ての生物のなかで人間のみが物事を判断する基準を持っているとしました。それは神から与えられた‘理性‘とも呼べる知恵であり、個人の考えや価値観を尊重するものでした。

この考え方は、当時としては啓蒙的で、それまでの因習や常識からギリシアの人々を解放するものとして大いに歓迎されました。

一方で、ギリシアを遍歴したソフィストたちは、社会の規範や法律、道徳などは人間によってつくられたものであり、それは国や地域や民族によって異なっているとしました。つまり、物事の判断基準は、一人一人の人間のとらえ方や感じ方にあるとする相対主義を唱えたのです。

彼らの代表格であるアブデラのプロタゴラスは「人間は万物の尺度である(人間中心主義)」と述べ、これに他のソフィストたちも概ね合意しました。

 

しかし、このソフィストたちの教えを拡大解釈し、個人の考え方や価値観を極端に重視する自己中心的な考えがアテネ全土に蔓延してしまいました。もちろん、ソフィストたちはそんなつもりはなかったのですが、人々は互いに勝手気ままに行動するようになり、時には不正や盗みなどの法や規範に抵触する行為も見受けられました。

アテネ民主政が衆愚政治へと傾倒していったのです。

さらに、アテネデロス同盟の運営資金に着服していたことが明るみに出て、これに反発したスパルタをはじめとする貴族政ポリスがデロス同盟から脱退し、ペロポネソス同盟を結んで、アテネと対立するようになりました。両陣営はやがてペロポネソス戦争へと突入していきます。

 

こうしたアテネの腐敗を批判したのが同じアテネ市民のソクラテスでした。現在のアテネの堕落はソフィストたちが招いたものだとしたうえで、人間社会には、地域や民族に共通する絶対的な真理が必ず存在すると説きました。

 

古代のアテネでは、市民一人一人の意見の意見を尊重することを基本理念に、直接民主政が繁栄しました。さらに、ソフィストたちの人間中心主義の思想も相まって、個人の思想や価値観が重視されるようになりました。これ自体はとても良いことです。

しかし、それが極端な解釈になってしまったことで、一人一人が勝手気ままに行動するようになり、アテネの堕落が始まってしまったのです。

これは反動作用ではないでしょうか。以前のアテネでは神や権力者によって個人の自由が抑えられすぎていたため、民主政治や人間中心主義は大いに歓迎され、その反動から極端な解釈となってしまったのではないでしょうか。

【どう違う?】自由主義経済と資本主義経済

こんにちは。本宮 貴大です。

 

「資本主義とは、市民が自由な経済活動を行うこと」

これが資本主義の定義といえるでしょう。

しかし、資本主義とほぼ同意語で使われる自由主義との違いはあるのでしょうか。

今回は、それを解説していきたいと思います。

 

まず、資本主義という言葉ですが、実は蔑称だったということをご存じでしょうか。

資本主義という言葉を最初に使ったのは、19世紀のフランスの社会主義者であるルイ・ブラン(1811~1882)という人物です。

そう、資本主義という言葉は、社会主義者が自分達と敵対する経済体制のことを指す言葉として生まれたのです。それまで「資本」という言葉は存在したものの、具体的な経済体制を指す言葉として使われ始めたのは19世紀からと、かなり最近です。

一方で、「市民の自由な経済活動」は大変古い歴史を持っています。経済活動とは、例えば「にんじんを売って、その対価を貰う」という「商取引」のことですが、定義上の資本主義は、古代から世界各地で行われてきました。

 

やがて15世紀から「国家」が形づくられ、絶対王政の時代になると、国家は市民の経済活動に介入するようになり、特定の商人に市場の独占権を与えたり、新規参入を規制したりしました。

これに対し、17世紀以降、ヨーロッパ諸国で市民革命が起こりました。革命は成功し、個人の自由は国家や政府などの強制・拘束から守られることが約束されました。

実はこれが広義の意味での自由主義ですが、その権利の一つに経済活動の自由がありました。

「国家は不必要に経済活動に介入してはならない」

この原則は紛れもない現在の資本主義経済の根本原理ですが、本来の意味でいうなら、自由主義経済というのが妥当なところでしょう。

 

しかし、そんな自由主義経済の様相が17世紀以降、大きく変化していきます。それまで一人一人が個人事業主として、職人や商人がコツコツと生産活動と商取引をしていた時代から、1つの作業場(工場)に労働者を集め、道具や機械を使って商品を大量生産する時代になったのです。

17世紀初頭、ヨーロッパ諸国では工場制手工業(マニュファクチュア)が誕生し、経営者がお金(資本)を使って工場を建て、そこに集まった労働者(手工業者)が商品を生産するようになりました。1つの作業場で分業が出来るため、個人で作業をするよりも生産量は各段にアップしました。同時に、個人の事業主としての自立性は失われていきました。

さらに18世紀後半、イギリスをはじめ産業革命が起こり、紡績機や力織機が発明されると、工場に機械設備も導入され(工場制機械工業)、商品の生産力はさらにアップしました。

その結果、多くの利潤を手にする経営者と、安い賃金しか与えられない労働者に分かれ、明らかな所得格差と階級意識が生まれました。

 

資本である土地や建物、機械設備を整備するには、多くのお金が必要になります。そのため、株式会社や投資家という言葉も普及し、銀行や証券会社も次々に設立されていきました。つまり、資本というものがより大きな意味を持つようになったのです。

こうした自由主義経済の発展から生じる問題点を指摘したのが、社会主義共産主義者たちでした。

「それまで個人として事業を行ってきた市民の労働力が、一部の資本家によって、土地、建物、機械設備などの資本の一部として利用されるだけの存在となり、労働者は事実上、資本家の奴隷となっている。」

社会主義者たちは、こうした状況を批判と皮肉を込めて、「資本主義」と呼んだのです。

そのうえで、社会主義者たちは自らの思想を「資本に左右されない、平等な経済体制をつくる」と標榜したのです。

 

いかかでしたでしょうか。資本主義経済とは、自由主義経済が発展したものだったのです。もちろん、歴史的な事実として社会主義共産主義は成功しませんでした。かといって、資本主義にもデメリットはたくさんあります。「資本主義」という言葉は、そんなデメリットに対する皮肉を込めた言葉だったのです。

【アダム=スミス】神の見えざる手の本当の意味とは?

こんにちは。本宮 貴大です。 

 アダム=スミスといえば、著書『国富論』で述べている「神の見えざる手」というイメージが強いです。「神の見えざる手」とは、国家が経済活動に介入することを極力避け、自由な市場経済に任せていれば、需要と供給によって適正な価格と需給量が必然的に決まるということです。それがあたかも神様が手を下して決めているかのように思えることからそう名づけられました。

 以上が世間でよく知られている「神の見えざる手」の解釈です。

 しかし、この解釈だけでは、大きな誤解を招いてしまいます。実際、私がお会いした経営者の中にも、「神の見えざる手」を引用し、「自由な経済活動をしていれば、結果的に社会は豊かになる」とおっしゃていた方がいました。

 

 しかし、アダム=スミスが『神の見えざる手』で示したのは、「国家が特定の企業のみに市場を独占する権限を与えてはいけない」ということです。

 アダム=スミスは18世紀のイギリスの人物ですが、18世紀のヨーロッパでは、国家が特定の企業や商人に独占権を与え、その代わりに国家に多額の税金を納めさせるということが頻繁に行われてきました。

 独占権を与えられた企業は競争相手がいないため、価格を自由に設定出来ます。すると当然、企業は価格をつり上げ(独占価格)、国民は非常に高い価格でも商品を購入しなければならなくなります。

 東インド会社はその代表例と言えるでしょう。東インド会社とは、17世紀初頭にオランダやイギリス、フランスなどの西欧諸国が国王の勅許のもとに設立された貿易会社のことです。国家から独占権を与えられた東インド会社は植民地から獲れる資源や農作物の全てを独占し、イギリス本国に送られてくる産品は全て独占価格で売られ、国民は高い価格でも産品を購入しなければなりませんでした。

 一方、イギリス本国から植民地への輸出は制限されたため、植民地の住民たちは、西欧の商品を高い価格で購入しなければなりませんでした。

 イギリス政府も「国を富ませるため」、「軍事支出の捻出のため」という一見まともな言い訳を使い、「貿易独占」と「輸入規制」をすることで国内の企業や商人の権益を保護したのです。しかし、国民の生活は大ダメージを受けます。

 商人からすれば、市場を独占できるほど美味しい話はありません。国家の経済介入を望んだのは、むしろ商人でした。商人たちはあらゆる手を使って市場を独占しようとしました。そのために最も確実な方法は、国家とタッグを組み、法律や規制を作ってもらい、その独占権を認めてもらうことでした。

 アダム=スミスはこれを強く批判し、「神の見えざる手」を示すことによって、国家が商人達に市場の独占権を与えることを禁じたのです。

 

 アダム=スミスは『国富論』の中で、「独占は絶対悪」だと繰り返し述べています。しかし、既に独占権を認められている商人からその権限を奪うことは実際には不可能だともしています。既得権益者は、権益を奪われそうになると、あらゆる手段を使って抵抗しようとするからです。したがって、アダムスミスは、せめて今後は、国家が商人に独占権を与えることがないようにしなければならないと結論づけました。

 

 今回はアダムスミスの『神の見えざる手』について、解説してみました。

 いかがでしたでしょうか。世間で認知されている『神の見えざる手』とは、かなり異なった印象が出たと思います。これはまさに現在の独占禁止法そのものです。

 当時のヨーロッパでは、商人が国家とタッグを組んで暴利をむさぼることは当然のように行われてきました。独占禁止法など整備されていない当時、国民はそれに従わざるを得ませんでした。その解決策として、アダムスミスが提唱したのは「国家は経済活動に介入せず、市場の自由にさせておくべき」ということだったのです。

【重商主義】東インド会社ってどんな会社?

こんにちは。本宮 貴大です。

 東インド会社といえば、中学や高校の教科書で出てくるひときわ異彩を放っていた言葉ですが、一体何をしている会社なのでしょうか。今回は重商主義とは何かについて学びながら、東インド会社について解説していこうと思います。

 

 重商主義とは、その名とおり「商業」を「重視する」という意味ですが、英語では、マーカンタイリズムと呼ばれています。

 この重商主義を、もう少し具体的に言うと、国家が商人に特権(保護)を与え、たっぷりと稼がせてから、国家に多額の税金を納めさせるということです。この特権を与えられた商人達こそが東インド会社の正体であり、今回の記事のポイントでもあります。

 

 この重商主義という言葉は15~17世紀に多用された言葉で、現在では死語となっており、自由主義や資本主義に置き換えられています。

 15世紀といえば、世界は大航海時代の幕開けで、西洋諸国がこぞってアジアやアフリカ、新大陸(アメリカ大陸)に進出していった時代です。それまでの貿易圏(通商圏)が地中海・北海・バルト海から、大西洋、インド洋、そして太平洋と急拡大したのです。これによって、それまで蔑まれてきた商人が時代を牽引する存在になっていきました。

 つまり、それまでの貴族や地主階級が支配する封建社会が根本から揺らぎ、商業資本主義ともいえる新しい社会構造へと変化していったのです。

 

 大航海時代の先陣を切ったのは、航海術に優れていたポルトガルでした。当初は、現地の商取引に参加させてもらう形で、金銀や資源、農作物(香辛料・茶)・繊維製品などを取引していました。やがてスペインというライバルが現れたことで、貿易圏の奪い合いがはじまり、両国はトリデシヤス条約によって、地球の東側(ユーラシア大陸)をポルトガルが、西側(アメリカ大陸)をスペインが掌握することが取り決められました。

 16世紀になると、貿易や商取引はさらに盛り上がり、その分、通貨の役割も増え、貨幣鋳造に必要な金銀の需要が増しました。世界各地で金・銀などの鉱物が発見されると、西洋諸国は金銀を手に入れるために、互いに大型外洋船を送りつけました。植民地獲得競争がはじまったのです。

 

 また、16世紀はカトリック教皇の権威が落ち、代わりに国王の権限が強まり(絶対王政)、「国家」という概念が鮮明になってきた時代でもありました。イギリスでは、1558年に即位したエリザベス1世のもとに全盛期となり、1588年にはアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を破り、ヨーロッパ世界の覇権を握るようになりました。そんなスペインの権威失墜を機に1581年、スペインからオランダが独立しました。

 ヨーロッパ世界は、「国家」同士が経済力と軍事力をもって対立し、大規模な戦争にも発展しました。

 

「富める国こそ、強力な国である」

 そんな言葉も生まれました。重商主義とは、大航海時代国家主義ナショナリズム)が生んだ国を富ませるための思想だったのです。

 西洋諸国は自国を富ませるために、特定の商人達を集め、会社組織を作らせました。それが東インド会社でした。

 世界で最初に東インド会社を設立したのはイギリスで、1600年、国王のエリザベス1世の出資により、誕生しました。会社には国王の勅許が与えられ、貿易市場の独占が認められました。代わりに東インド会社は儲けた利益を税金として国王に納めました。

 また、1602年にはオランダも国王の勅許により、東インド会社(世界初の株式会社)が設立され、フランスも続きました。東インド会社とは、国からのお墨付きをもらい、外国との貿易を一手に引き受ける独占企業だったのです。

 独占企業であるということは、植民地に居住する人々は、ヨーロッパの産品をその企業から買うしかありません。そうなると、独占企業は非常に高い価格で売ることができます。これによって、金貨や銀貨を効率よく入手しようというのです。

 東インドとは、インド以東のアジアのことを指すため、東南アジアや東アジアにも商館が建てられ、アフリカにもありました。(イスラム教圏は、当時のヨーロッパにとっては脅威だった。)アメリカ大陸には、西インド会社が貿易を担当しました。

 

 では、ここからは重商主義の7つの教義を見ていきながら、今回の記事をまとめていきたいと思います。以下、7つの教義は、重金主義とも呼ばれている思想で、東インド会社(貿易差額主義)に関することや、後の世に現れる帝国主義の思想も既に現れています。

1、自国の金銀の保有量を増やす

商取引は原則、金貨・または銀貨で行われるべし。富める国とは、より多くの金銀を保有する国のことである。貿易相手国からも金貨もしくは銀貨での支払いのみ応じる。(物々交換の拒否)

2、他国より強い軍事力をもつ。

世界の富(金銀)は希少なものである。ゆえに必ず奪い合いが起こる。そのために軍事力、特に海軍力を強めるべし。

3、輸入を増やし、輸出を減らす。

外国からの貴重な原材料には関税を課さず、どんどん輸入する。他方、輸出は制限(売り渋り)し、出来るだけ高い価格になったときに輸出するべし。輸出制限をすることで、効率的に外貨(金銀)を獲得すると同時に、国内の商品(財)が品薄になることからくるインフレ対策もしている

4、植民地を増やす。

植民地を増やすためなら、他国との軍事衝突も辞さない。獲得した植民地に関しては、現地の自給自足を潰し、自国の求める特定(単一)の商品のみを生産させる。

5、植民地との取引は、全て国家(政府)が独占する

外国との貿易市場は、全て勅許を与えられた東インド会社が独占する。

6、植民地との取引は、全て国家が管理・監督する

国内における外国貿易の新規参入は厳しく制限する。現地での商品の生産方法や品質も国家が管理・監督する。

7、勤勉な国民(労働力)を増やす

泥棒や不正を働いた者は、厳しく罰せよ。五体満足(健康)でありながら、浮浪したり、物乞いしたりする者も厳罰とし、国民を‘勤勉な者‘に仕向ける。

 

中世までのヨーロッパでは国王や貴族、地主などの支配者階級が市民の経済活動に強く介入していました。

しかし、中世以降のヨーロッパでは、市民が自由に経済活動を行えるようになり。自由都市自治都市も形成されました。これこそ、現代の資本主義そのものといえます。

しかし、「国家」が形作られ、植民地獲得競争が激化すると、国王や政府はアジアやアフリカにおいて再び経済活動に関与するようになりました。重商主義東インド会社とは、「国家」となったヨーロッパ諸国が他国と対立するようになったことから生まれたのです。