【ソクラテス】善く生きるとは?

こんにちは。本宮 貴大です。

 

ソクラテスによると、「善く生きる人」とは、「善い人」であるとしています。「善い人」とはどんな人なのでしょうか?

たとえば、「善いハサミ」とは、切れ味が鋭いハサミのことです。また「善い馬」とは、速く走ることが出来る馬のことです。

では、「善い人間」とはどんな人なのでしょか。

ソクラテスは、「善い人間」のことを「徳のある人」と表現しました。徳とは、日本の学校で学ぶ「道徳」とほぼ同じ意味ととらえて差し支えない。

民主政治が繁栄した当時のアテネでは、人間中心主義の拡大解釈によって、市民一人一人が勝手気ままに行動しても良いという風潮が蔓延していました。すなわち、不正をしてまで、富や地位を獲得しようとする者が増えてしまったのです。

こうしたアテネの腐敗をソクラテスは痛烈に批判し、人々に「善く生きる」ことを説きました。では、ソクラテスのいう「善く生きる人」とはどのような人なのでしょうか。カリクレスという野心的な人物との対話をみながらその理解を深めてみましょう。

 

カリクレス 「ソクラテスよ。あなたは、善く生きることを説いているが、それで本当に幸福になれるのかね。」

ソクラテス 「そう確信している。不正をしてまで富や地位を獲得しても、魂が傷つくので、真の意味で幸福になることなど出来ないのです。」

カリクレス 「でもね。ソクラテスよ。アテネ市民の中には、不正をして富や地位を得ても幸せそうに生きている者がいるではないか。不正をすることも個人の才能のひとつなのだ。不正をしてはいけないなどとは、そのような才能がない弱者が負け惜しみを言っているだけではないのか。」

ソクラテス 「貴方は人間としての品格を失っていますね。身体は健康かも知れませんが、魂は不健康そのものですね。」

カリクレス 「そんなことはない。自然界では、弱肉強食が大原則ではないか。強い者が、弱い者を支配し、強引な方法で欲を満たしているのだ。強くなくては生きていけないのだ。」

ソクラテス 「それが原因ですね。あなたは強い者の定義をはき違えていますね。強い者とは、自らの欲望や快楽をコントロールし、正当な方法でそれらを満たしていく者のことを言うのだよ。一方で、地位や富などは人間の附属物でしかないのだよ。人間の本質は徳であり、地位や富は、徳を持った人間に生かされてこそ、はじめてその効力を発揮するのだ。」

 

 このようにソクラテスは、善く生きることは、魂を傷つけないことであるとし、魂を良くするためには、魂に徳が備わっている必要があるとしました。では、魂に徳を備えるにはどうしたらよいのでしょうか。ソクラテスは次の3つの手順を踏む必要があるとしている。

  1. 知徳合一
  2. 知行合一
  3. 福徳一致

 まず、「善」というものを知らなければなりません。「善」とは、善悪の判断基準に照らし合わせて「善」に分類されることを言います。「善」を知らなければ、善と悪をはき違えてしまうことになりかねません。また、その基準がより高次になったものを「真の善」といい、例えば「他人のものを盗んではいけない」などは低次の善であるといえます。そんな「真の善」を知り得た者が徳のある人だとしました(知徳合一)。

次に、知り得た「善」を行動に移す必要があります。逆いうと、行動が伴わないのであれば、それは「善」を知らないことと同じなので、腑に落ちるまで「善」を学び、自然と行動出来るようになる必要があります(知行合一)。

そして、善を知り、行動に移すことを繰り返すことが、善く生きるということであり、それこそが幸福な生き方であるとした(福徳一致)。

 

ソクラテスは、人間にとって大事なのは「どれだけ生きたか」ではなく、「いかに生きるか」にかかっているとした。