【老子】ストレス社会を生き抜くためには?

こんにちは。本宮 貴大です。

 

現代人も、ストレス社会を生きています。

学校や職場など、私たちはあらゆるところからプレッシャーをかけられています。もちろん社会生活を営むうえで、ある程度の責任は負うべきでしょう。だからこそ、過度なストレスや余計なストレスは感じたくないものです。

今回は老子の思想を見ていきますが、彼の教えは、そんなストレス社会を生きる現代人にとって非常に大事な教えとなりますので、

 

「自然のままに生きる」

これが老子の根本的な思想ですが、字面だけみると、自然の流れに身を任せて、惰性で生きるような感覚かと思われます。しかし、老子は決して手抜きをしろとか、怠惰で生きろとは述べていません。

老子が言いたかったのは、文明や人間社会が作り出した常識や価値観に縛られるほど、苦しい生き方になってしまうということです。

たとえば、仕事や勉強を頑張ることは大事なことです。しかし、頑張りすぎると、心身とも疲れ切って、怪我やうつ病の原因にもなります。うつ病になる人とは、気の弱い人ではなく、真面目に一生懸命頑張り過ぎた人なのです。それに対して周囲の人々は「甘えている」とか「根性が足りない」などと厳しい言葉を浴びせます。しかし、それこそまさに人間が作り出した常識であり、間違った価値観なのです。

文明社会には、そういった間違った考えや価値観がはびこっています。老子は文明の発展とともに、原理原則に立ち返ることを忘れてはならないと説いたのです。その原理原則こそ、自然のような生き方です。文明社会の常識とは、人間がつくりだした価値観ですが、それが必ずしも人間の生き方に合致しているとは限らない。それよりも自然のように一見、穏やかでゆっくりしているように見えるけれど、どこかエネルギーに満ちており、着実に物事を成し遂げていく生き方が大事なのです。

自動車はアクセルだけでは単なる暴走車です。ブレーキがあってこそ初めて便利な乗り物として成り立ちます。人間も常にアクセル全開で行動し続けていても、とても長続きはしません。適度にブレーキを踏むことで、長く力強く生きていくことが出来るとしました。

これは儒家の教えと正反対です。文明の発展を歓迎する儒家に対し、それによってストレス社会が生まれたと指摘した道家。学問や知識を増やすことを奨励した儒家に対し、知識を増やし過ぎたために憂いが生じてしまうとした道家

(もっとも孔子も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」として、頑張り過ぎることへの警鐘を鳴らしていますが。)

 

持して之を満たすは、其の已めんには如かず。(『老子』第九章)

老子は、コップに水が満杯なのは望ましくないとしました。少し振動しただけで中身がこぼれてしまい、とても安心出来る状況ではありません。これを人間社会に当てはめてみましょう。多くの財産を持つことは大事なことだけれど、それだと失った時のショックも大きく、その財産を狙って近寄ってくる人も増えることでしょう。老子は、適度に満たされている状態が理想的であるとしました。

 

 

老子は減らすことの大切さも説いています。数年前に「断捨離」がブームになりました。部屋の中に物がたくさんあることは豊かなことかもしれませんが、物が多すぎるとかえって思考が混乱し、良い仕事やアイディアは浮かんできません。それよりも物が少なくてシンプルな部屋だけど、すっきりとした気持ちで日常生活を送ることが大切なのではないでしょうか。

 

ここまでの老子の教えを見てきて、あることに気づきました。それは「足るを知る心」が大事だということです。老子は贅沢や虚飾は人を不幸にするといいます。私達は、学歴や資格など自分自身に足すことばかり考えます。また、地位やお金なども得ようと必死で努力します。しかし、それでは苦しいばかりか、思うような結果も得られません。それよりも、現在の生活に満足する知足の精神を持つことが人を幸福にするとします。

 

 

今回は老子の教えを見ていきましたが、彼の教えは現代でも十分に通用します。私達が生きる実社会では、「頑張ることの大切さ」や「所有することの大切さ」などが常識とされています。しかし、その常識に従えば従うほど、その人自身は不幸になっていきます。

だからこそ老子は、あえて「頑張らない大切さ」や「減らすことの大切さ」を教えてくれたのだと思います。老子は自然のような生き方のことを道(タオ)とあらわしました。それは喩えるなら、かつて人間が自然の一部として生活し、素朴だけれど、生き生きとした調和のとれた生活のようなものなのです。