【ソフィスト】アテネ社会が堕落した原因とは?

こんにちは。本宮 貴大です。 

古代ギリシアでは、プロタゴラスを代表とするソフィストと呼ばれる職業教師が誕生しました。今回は、ソフィストとはどのような人達かをみていきながら、アテネ社会が堕落した原因について学んでいこうと思います。是非、最後まで読んでくださいますよう、よろしくお願いします。 

 

「最善の政治とは、市民一人一人が意見を出し合う政治のことだ。」

古代ギリシアでは、民主政治の考えが芽生え、特にアテネでは紀元前508年、クレイステネスの改革によって民主政治の基盤が着々と整備されていきました。

アテネパルテノン神殿を根拠地に町が造られ、その中心部にはアゴラという市民の公共広場があり、民会や法廷、市場として利用されました。民会では、アテネの成人男性が自らの意見を論理的かつ雄弁に語り、人々を説得できた者は、その意見を政治に反映させることが出来ました。

紀元前5世紀になると、専制国家のアケメネス朝ペルシアがギリシア全土に侵攻してきました(ペルシア戦争)。アテネでは将軍・ペリクレスが指揮をとり、スパルタなどの他の諸ポリスも立ち上がり、ギリシアは一致団結し、ペルシアの侵攻を阻止することに成功しました。

以後、ギリシアではペルシアの再来に備えてアテネを盟主としたデロス同盟を結成しました。

また、この戦争の勝利に自信を得たアテネは、専制国家に屈しない民主政治の確立を急ぎました。ペリクレスは法律を定め、両親ともにイオニア人アテネ人)である18歳以上の男子であれば、誰でも政治に参加できる直接民主政が完成しました。

 

アテネでは弁論術に長けた者が政治家として出世することが出来ました。先ほどのペルシア戦争を指揮したペリクレスは、演説によってアテネ市民を鼓舞し、ペルシア軍を撃退することに成功しました。この功績からペリクレスは将軍から政治家へと出世しました。

そこで、報酬を貰って弁論術を教える職業教師(ソフィスト)が現れました。賢者を意味するソフィストは、大変豊富な知識を持っており、アテネだけでなく、ギリシア各地を回って弁論術を教え、謝礼金を貰っていました。

 

しかし、ソフィストを雇う人達の中には、「立身出世のためなら、たとえ自分が正しくない主張であっても、相手を説得できるような雄弁さが欲しい」というニーズが高まり、それに答えるように詭弁術などを教えるソフィストたちも現れました。詭弁術とは、虚偽であっても真理のように見せかける話術のことですが、手段と目的が逆になってしまう現象が起きてしまったのです。

アテネの民主政治がにわかに堕落していきました。

 

ソフィストたちは、全ての生物のなかで人間のみが物事を判断する基準を持っているとしました。それは神から与えられた‘理性‘とも呼べる知恵であり、個人の考えや価値観を尊重するものでした。

この考え方は、当時としては啓蒙的で、それまでの因習や常識からギリシアの人々を解放するものとして大いに歓迎されました。

一方で、ギリシアを遍歴したソフィストたちは、社会の規範や法律、道徳などは人間によってつくられたものであり、それは国や地域や民族によって異なっているとしました。つまり、物事の判断基準は、一人一人の人間のとらえ方や感じ方にあるとする相対主義を唱えたのです。

彼らの代表格であるアブデラのプロタゴラスは「人間は万物の尺度である(人間中心主義)」と述べ、これに他のソフィストたちも概ね合意しました。

 

しかし、このソフィストたちの教えを拡大解釈し、個人の考え方や価値観を極端に重視する自己中心的な考えがアテネ全土に蔓延してしまいました。もちろん、ソフィストたちはそんなつもりはなかったのですが、人々は互いに勝手気ままに行動するようになり、時には不正や盗みなどの法や規範に抵触する行為も見受けられました。

アテネ民主政が衆愚政治へと傾倒していったのです。

さらに、アテネデロス同盟の運営資金に着服していたことが明るみに出て、これに反発したスパルタをはじめとする貴族政ポリスがデロス同盟から脱退し、ペロポネソス同盟を結んで、アテネと対立するようになりました。両陣営はやがてペロポネソス戦争へと突入していきます。

 

こうしたアテネの腐敗を批判したのが同じアテネ市民のソクラテスでした。現在のアテネの堕落はソフィストたちが招いたものだとしたうえで、人間社会には、地域や民族に共通する絶対的な真理が必ず存在すると説きました。

 

古代のアテネでは、市民一人一人の意見の意見を尊重することを基本理念に、直接民主政が繁栄しました。さらに、ソフィストたちの人間中心主義の思想も相まって、個人の思想や価値観が重視されるようになりました。これ自体はとても良いことです。

しかし、それが極端な解釈になってしまったことで、一人一人が勝手気ままに行動するようになり、アテネの堕落が始まってしまったのです。

これは反動作用ではないでしょうか。以前のアテネでは神や権力者によって個人の自由が抑えられすぎていたため、民主政治や人間中心主義は大いに歓迎され、その反動から極端な解釈となってしまったのではないでしょうか。