【モーセ】ユダヤ教はなぜ成立したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

ユダヤ教の特徴は、選民思想、律法主義、終末思想、救世主思想などがあります。今回は、そんなユダヤ教の成立過程をみていきながら、ユダヤ教の特徴についても解説していきたいと思います。

ユダヤ人が形成されたのは、紀元前2000年頃と言われています。ユダヤ人という名前は、ユダヤ教成立後に成立したもので、以前は、外国人からはヘブライ人と呼ばれ、自分達は自らをイスラエル人(神に勝る人)と呼んでいました。(以下、ユダヤ人のことをイスラエル人と呼ぶことにする。)

メソポタミア地域を中心に遊牧生活を送っていたイスラエル人は、前1500年頃にカナンの地(現在のパレスチナ)に住み着きました。

やがて、メソポタミア地域が飢餓に晒されるようになると、一部のイスラエル人はエジプトに移住しました。エジプトは農作物が豊富で、食べ物には困りませんでした。しかし、当時のエジプト国王(ファラオ)は勢力を拡大させるイスラエル人を疎ましく思い、イスラエル人に強制労働を課しました。

 

そんな中、紀元前13世紀頃に、エジプトで育ったユダヤ人のモーセが圧政に苦しむ同胞たちを救うため、自らをリーダーとしてイスラエル人をエジプトから脱出させました。シナイ山に到達したとき、モーセは神から守るべき10個の掟(十戒)を預かります。

「ここにイスラエル人の居住を許す。その代わり、十戒は厳守すること」

イスラエル人は、再びカナンの地に戻り、紀元前1025年にイスラエル王国を建設しました。イスラエル神殿も建設され、王国はダビデ王とソロモン王のときに全盛期を迎えました。しかし、王国が、北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂すると、アッシリア帝国新バビロニア王国によって滅ぼされてしまい、神殿も破壊されました。

新バビロニア国王のネブガドネザル2世は、ユダ王国の住民をバビロンに移住させ、そこで強制労働を課しました。強制移住させられたイスラエル人は11万人にも及んだとされています。

イスラエル人の中から、イザヤやエレミア、エゼキエルなどの預言者が現れ、彼らはイスラエル王国が滅んだのは、自分達が傲慢で律法を守らなかったからだと説きました。

こうした背景から、イスラエル人は、自分たちは神に選ばれた選民であるという自覚を芽生えさせました。これがユダヤ教のはじまりです。

選民とは、優秀な民族という意味ではなく、神の掟を守る高い義務を課された民族であるという意味です。イスラエル人は、世界を創造した唯一の神をヤハウェと呼ぶようになり、ヤハウェと契約を交わしました。それは、ヤハウェは律法を守れば民を救い、守られなかれかったら、容赦なく民を裁くというものでした。

バビロンに連れてこられたイスラエル人は、コミュニティの形成は許されていたため、圧政に苦しみながらも、信仰を守り、民族としての団結力を保ち続けることが出来ました。

 

50年後、バビロニアがアケメネス朝ペルシアに征服されると、イスラエル人は50年間にわたる強制労働から解放されました。アケメネス朝は、異民族や異教徒に対しては寛容な政策をとったため、以降、ユダヤ教は本格的にその体裁を整えていきます。ユダヤ人は自分達の苦難の歴史を聖書(旧約聖書)にまとめ、日常生活における厳しい戒律を定めたタルムードを編纂し、それらを教典としました。

その後、イスラエル人はギリシア帝国(セレウコス朝)の支配を経て、紀元前63年に、ローマ帝国ポンペイウスによって征服され、その属州となりました。

 

このようにユダヤ教の成立過程には、ユダヤ人の民族としての苦難の歴史がありました。ユダヤ教とは、流浪の民族であるユダヤ人の共同体としての意識を維持するために生まれた教えだったのです。

現在、ユダヤ教は、あまり普及しておらず、信者も多くありません。それはなぜでしょうか。まず、ユダヤ教には民族の救済は説かれていても、個人の救済が説かれていない点にあります。

たとえば、ユダヤ教を母体として生まれたキリスト教には、個人の救済が説かれています。現在、広く多くの民族に受け入れられている世界宗教には、個人の救済が説かれています。

また、ユダヤ教徒は熱心な布教活動もやりません。それにはやはり選民思想が関係しているでしょう。自分たちは神に選ばれた民族であるという誇りがあるため、ユダヤ教徒になるには、厳しい条件があります。一方で、キリスト教同様にユダヤ教を母体としてうまれたイスラム教は、熱心な布教活動や領土拡大を行ってきました。

つまり、ユダヤ教とは、宗教というよりも、ユダヤ人がユダヤ人であるためのアイデンティティを保つための厳しい決まりを定めたものであるといえるでしょう。